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更新日:2021年4月15日

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激動とともに生きる 五十里

1.五十里 湖の出現

天和3年(西暦1683年)9月1日、マグニチュード6.8の大地震が日光・藤原・南会津地方を襲った。昭和24年の今市大地震がマグニチュード6.4と記録にあるがそれと同規模以上のものと推測できる。

   これにより、日光御神領、西川村(現日光市栗山)の葛老山が崩壊し、流出した土砂が男鹿川をせき止めた。崩壊した土砂の量は、現在の地形から判断して約60万立方メートルと推測される。さらに折からの降雨により男鹿川の水位はみるみる上昇し、五十里、西川地区に住む31軒の村人たちは、上の大地への避難を余儀なくされた。

    当時、会津西街道(国道121号)の交通も遮断され、通行人は山越えとなったが、駄馬の荷は山越えがかなわず、にわか仕立て筏で運搬した。

    土砂崩落後、90日間で村は湖底に沈み、湖は150日間で満水に湛えた。水深は、一番深いところで47メートルに達したといわれている。

2.五十里湖の水抜き工事

西川、五十里村に住む人々は、天災の影響を受けて窮乏生活を余儀なくされた。また、下流地域に住む人々にとっても、万一崩壊した土砂が決壊した時のことを思うと、なみなみ湛えた湖水を抜くことが切なる願望であったことは容易に想像できる。

   五十里湖の出現から24年を経て、会津藩が水抜き工事の着手に乗り出した。請負額は4,375両、当時としては破格の金額である。

    地元村人達の協力も得、工事が進められたが巨大な一枚岩盤に突き当たった。当時の工法では、岩盤の上でいもがらを燃やし、その後水をかけ岩盤を脆くして掘り進むような方法だったため、思うようにはかどらず、ついに工事中止となった。

    この工事中止の責任を負い、会津藩士早川上粂之助と高木六左衛門という武士が割腹自殺を遂げた。葛老山崩落地点近くにある小高い丘、布坂山の頂上にこの藩士の墓と伝えられる小さな祀られている。この伝説から布坂山は腹切山とも呼ばれている。

  

 

3.海抜けと大水害

享保8年(西暦1723年)8月10日、五十里湖出現からちょうど40年度、その一帯が暴風雨に襲われ、五十里湖の水位が著しく上昇した。そして、ついに上昇する水圧に耐えかね、ダム状に堆積していた土砂が押し流された。世にいう五十里洪水である。洪水は下流地方を席巻し、下野国(栃木県)では未曾有の大災害となった。直下流の川治村、藤原村は全村壊滅的打撃を受け、下流70ヶ村におよび12,000人(推定)もの人命や牛馬を飲みこんだといわれている。

4.再び五十里湖の出現

第2次世界大戦後、再び五十里村が湖底に沈むこととなった。五十里ダムの建設である。これにより、66世帯85戸の住民が水没により移転を余儀なくされた。

    五十里ダムは、洪水調節、発電及び灌漑用水の開発を目的とした多目的ダムである。
総工費48億円余りと約6年の歳月をかけ、昭和31年に完成した重力式コンクリートダムである。

    五十里、西川地区に住む住民は、過去には自然災害と戦い敗れ、又現代においてはダム建設のため住み慣れた土地を提供し、また新たな生活の場を求めるという、激動の運命に生きてきたといいえる。

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